「遠津川」都からも港(津)からも遠く離れたこの秘境の村を今は十津川と呼ぶ
谷瀬の吊り橋は、「たにぜ」と読ませるが、橋を渡った銘板は「たにせおおはし」と
濁らない。奈良ではNO.1の景観を誇る谷瀬の吊り橋誕生秘話や揺れる恐怖の様は語り尽くされているので今回は違った視点から見ていきたい。
十津川村が裕福だった訳 租税勅免地
壬申の乱で天武天皇が吉野から挙兵する際に十津川の人々が大きな功績を残したことで租税を免除される。その後の後醍醐天皇南朝時代にも貢献しずっと先の豊臣政権になっても十津川は御赦免の地であったために税に苦しむことなく比較的裕福な村だったと思われる。有祖地となったのは明治6年からである。
予期せぬ悲劇
明治22年8月未曾有の暴風雨に吉野郡一帯が襲われる。中でも十津川の被害は甚大で
多くの家屋は流され水田の50%を失う。村人たちの決断は早かった
新天地を求め北海道へ! 新十津川村開拓
水害により村での生活が困難になった約2500人は、明治政府の援助を受けて北海道今の滝川市石狩川を越えた地に移住を決断する。
なにゆえ奈良から1200キロも離れた北海道なのか?
当時北海道は大開拓時代の幕開けで明治19年に植民計画が出され本州に向けて大量の
移民推奨冊子なるものを配布していた時期であった。
原野の開拓
移住と言っても家や農地が用意されているわけでもなく大木の生い茂る原野を開拓することからのスタートであった。不屈の精神で彼らはこの地を切り開き発展させた
大正に入る頃には16000人を超える地域最大の村から町へと昇格する
この地を「新十津川町」と名付けた。
新十津川町の下を流れる石狩川、対岸は滝川駅
今も奈良の十津川村と北海道の新十津川町は同じ村(町)章である。
そんな思いを馳せて揺れる谷瀬の吊り橋を渡るのも感慨深い。